「金貨で支払ってくれ」——ある音楽家の要求

「ダ・ダ・ダ・ダーン」。

この4つの音を聴いて、ピンと来ない人は少ないかも知れない。交響曲第5番「運命」の冒頭である。そして、「第九」の愛称で親しまれる第9番「合唱」は、とりわけ日本では年の瀬になると全国のコンサートホールで鳴り響く。作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、200年以上の時を超えていまなお演奏され続ける音楽を我々に残した。

しかしその生涯は、輝かしい作品とは裏腹に、苦闘の連続だった。

ベートーヴェンは1770年、現在のドイツ・ボンに生まれた。幼少期から音楽の才を示し、21歳でウィーンに移り住む。ハイドンに師事し、やがてピアニストとして、作曲家として名声を高めていった。貴族のパトロンたちが競って支援を申し出た。人生の前半は、まずまず順調だったと言えるだろう。

暗転は、二つの形でやってきた。

一つは肉体への試練。20代後半から聴覚障害が始まり、44〜45歳(1814〜1815年)頃には難聴をきたすまで悪化していた。音を聴くことができない作曲家。それでも彼は書き続けた。晩年の傑作「第九」は、ほとんど聴覚を失った後の1824年に初演されている。

初演の夜、ベートーヴェンはみずからステージに立ち指揮棒を振った。しかし、実際には彼をサポートする別の指揮者が立てられており、楽団員はそちらに従っていた。聴く力を失っていた彼は、目の前のスコアにのめり込み、頭の中で鳴り響く少し遅れたテンポを必死に追いかけていたのか、現実の演奏が終わったことに気づかなかったようだ。アルト独唱者のカロリーネ・ウンガーが彼の腕をそっと引き、観客の方を振り向かせた。そこで初めて、割れんばかりの喝采を「見た」。

もう一つは時代の試練だった。

ナポレオン戦争を通じてオーストリア政府は戦費調達のために紙幣(バンコゼッテル)を刷り続けた。1797年に約7400万フローリンだった発行残高は、1811年には10億フローリンを超えたとされる。1811年、ついに皇帝フランツ1世はバンコゼッテルの価値を額面の5分の1に切り下げると宣言。事実上の国家破産である。

ベートーヴェンはその直撃を受けた。パトロンの貴族たちから約束されていた年俸は、インフレによって実質半額以下になった。1816年に支払った家賃は6年前の約10倍。食料品も半年でおよそ5割跳ね上がるほどだった。彼の手紙にはこんな嘆きが残っている。

「これらの音符はどれも、私の窮乏を救ってはくれない。」

そんな時代の中で、ベートーヴェンは一つの確信を深めていった。紙幣は信用できない。しかし金貨は違う。

1815年9月24日、台本作家フリードリッヒ・トライチュケへの手紙に、その確信が滲み出ている。オペラ「ロムルスとレムス」の作曲料について、劇場側と交渉するよう依頼した文面にこうある。

「芸術のために、多くの犠牲を私は喜んで払ってきた。そして今も払い続けている。しかし、このような条件では私が失うものが大きすぎる。ロムルスについては、劇場側に金貨200ダカットと一夜の興行収入を求めた。」

紙幣ではない。金貨で、である。

ダカット金貨は歴史的に金の含有量が安定しており、インフレで価値が目減りしていく紙幣とは根本的に異なっていたからだろう。ベートーヴェンが金貨を求めたのは強欲からではない。もちろん投資目的などでもさらさらない。自らの労働の価値をインフレから守るための、合理的な判断だった。ミサ・ソレムニスの作曲料をめぐっては、出版社が金貨の価値を低く見積もろうとした際にも激しく抗議している。

残念なことに「ロムルスとレムス」は結局未完に終わった。しかしこの手紙は2022年のオークションで約25万ドルで落札された。金貨で払えと書いた手紙が、今度はドルで売られた。

戦費調達のために紙幣を刷り続け、インフレが国民の資産を蝕んだという歴史的事実。これはナポレオン戦争期のオーストリアだけの話ではない。200年の時を経たいま、同じような構図が別の舞台で繰り返されている。ベートーヴェンの判断は、時を超えて静かに共鳴している。

出所:
・ベートーヴェン・ハウス・ボン(公式資料)
・RRオークション(手紙原文・英訳)
・The Vintage News(第九初演エピソード)

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